大矢 雅則, 須鎗 弘樹
物性研究 66(2) 235-245 1996年
開放系の数理モデルは,統計物理学において,対象とする系の非可逆性や平衡状態への推移の議論に非常に多く用いられており,その応用範囲は極めて広い.本論文では,筆者の一人が提唱している情報力学の複雑量を,量子光学における典型的な開放系のモデルに用いて,系の非可逆性と平衡状態への推移の議論を行う.つまり,量子光学でよく用いられる開放系のモデルを量子マルコフ過程に適用し,その上で,相互エントロピーを具体的に計算する.情報理論において,相互エントロピーは,初期状態の情報量が状態変換を表すチャネルによって,終状態にどれだけ正しく伝達されたかを表す量であるから,この複雑量を用いて,対象とする系の非可逆性及び平衡状態への推移を議論することができる.この相互エントロピーを計算する際に重要なのが,状態変換を表すチャネルである.チャネルは,量子マルコフ過程の定義に用いられている推移期待値と密接な関係がある.つまり,推移期待値の共役写像は,リフティングと呼ばれる写像であり,これは,状態空間からその状態空間を含むより大きな状態空間への写像で,系の間の相互作用を表している.そして,リフティングから上述のチャネルは,部分トレースを取ることによって容易に得ることができる.つまり,チャネルと推移期待値の概念は,リフティングの概念を通して,関係付けられる.これらの相互関係から,従来,量子情報理論において用いられてきた量子相互エントロピーを量子マルコフ過程上で開放系のモデルに適用し,具体的に計算することによって,系の非可逆性を論じることは,情報理論の手法を統計物理学に応用するという意味においても,非常に有効と思われる.実際,この相互エントロピー等の複雑量を用いて,多種多様な量子マルコフ過程を分類,特徴付けることは,系を特徴付ける意味においても有用と思われる.本論文では,量子光学でよく用いられる開放系のモデルとして,具体的にハミルトニアンを与え,チャネルを定めた.その上で,ハミルトニアンの特徴から,チャネルのStinespring表現を厳密に導くことに成功した.このことによってStinespring表現が,物理的具体例において初めて構成されたことになった.このStinespring表現を用いて,相互エントロピーを何等近似を用いずに厳密に計算し,その結果から,系の非可逆性を議論した.具体的には,熱浴系の状態として真空状態とギブス状態を用意し,いずれの場合も,観測系と熱浴系の相互作用の回数の増加に伴って,相互エントロピーが単調に減少することを示し,さらに,この熱浴系の2つの状態を比べると,相互エントロピーはギブス状態の方がより大きく減少することを数値計算によって示した.このように,本論文は,チャネル・リフティング・推移期待値・相互エントロピー等の量子情報理論や量子マルコフ過程論における様々な数学的・物理的概念から出発して,具体的なチャネルや複雑量の導出,その数値計算及びそれらの結果から得られる系の非可逆性までを,簡潔に示したものである.